寝子の通り道

頭の中で繰り広げられている脳内(撲殺)ストーリーを小出しに。

不定期発信

理想と妥協

 

結局無くならないよね。物欲って。

中学生の時思っていたこと。高校生になったらアルバイトをして、好きな洋服を好きなように着たい。

私に限らずそう思っていた人は多かったと思う。
私は誕生日が遅かったので、アルバイトをできる16歳になるまで、みんなより少し我慢を強いられた。
高校一年生の終わり、母にアルバイトをしたいと言ったら、「お金を稼いで何をするつもりなの。学校で必要なものは言えば買ってあげる」と言われた。
当然学校で必要なものを買うためにアルバイトをするわけではない。もちろん母も分かっていたこと。
泣きながら懇願して(暴れて)高校2年生の夏、アルバイトをする許可をもらった。
正直たくさんの人に囲まれて働くのは、多分今と一緒で向いていない。
でも高校生を雇ってくれるところなんてたかが知れている。
今も苦手な飲食業。
複数人の大人に見守られ(監視され)、たくさんの知らない人にもまれながら成長させられる場所であった。

初めての給料で買ったものは今も覚えている。
胸元にチェリーの刺繍が入ったMILKのカーディガン。
20,000円くらいしたのではないだろうか。
着なくなってからもしばらく大切に保管していたと思う。(要するに今はどこにいったか分からない。)
お金を持つようになったら、どうしてもしてみたい格好があったけど、自分の顔と体系じゃ絶対に似合わないことを分かっていたし、似合っていない人を見ると不快感すらあったので、結局妥協して選んだ格好で数年過ごした。

同じような格好をしている子たちには、「飽きたら売ってね」「一緒に写真を撮って」とわりと言われることがあったので、それなりには似合ってはいたのだろう。
着だしたら愛着もわき、気が付けば「好きな格好」として自分に定着していた。

「もう少し背が高くなったら」「もう少し痩せたら」「もう少し大人になったら」と温めていた私の好きな格好は時とともに流行から取り残され、いつしか興味も無くなった。
そのくらいで興味をなくすくらいなら、もともとそれほどでもなかったのだろうと自分を納得させたのを覚えている。

大人になって一人暮らしをはじめ、自分の食い扶持は自分で稼げるようになったころ、私は、あの頃より背も伸び、無駄な肉は落とされ、随分雰囲気が変わっていた。
そして昔憧れていたあの格好が、時代の流れもあり変貌をとげ、また注目され始めた。
胸が躍ったし、「早く自分に定着させなければ」と必死になっていたと思う。
他の格好と比べ、値は張るし、個性を要求される。
男性の一般受けはしないし、一歩間違えればギョッとする格好にもなってしまう。
それでも7年間愛し続けた格好で、気に入ったものは今も大切に保管しているし、今だ使っているものもある。

それからまた時が立ち、気が付けばもうその格好は自分の中で過去のものになり、街に出ても恥ずかしくない、年相応の格好をするようになった。
子供のころはまだ似合わないと諦め、大人になってからはもう似合わないと諦めた。

人生が80年だとすると、本当に好きな格好をしていたのは、その7年間だけかもしれない。
もちろん、これからもっと好きな格好ができるかもしれない。
結婚をし、子供が生まれ、年を取っていくときっともっと妥協もあると思う。
「これでもいい」「まあ今度でいいか」が増えていくのだろう。

それでも今までの私の楽しみの大半は、恋愛でもなく、友達でもなく、家族でもなく、自分を着飾ることだったと思う。
「もういい年なんだから洋服にお金をかけるなんて」という言葉をよく耳にしたけど、もっとも格好悪い言葉だとずっと思っていた。
でも自分の中でその言葉が浮かんだとき、ごく自然に納得できた。
変わっている、突っ走っている、我が強いと言われてきた私にも一般的な常識があるのだと安心感さえ覚えた。

それでも私は妥協しながらも、しぶとく自分を着飾るのをあきらめていない。
妥協の中にもきっと楽しいことはある。
それを見つけるのが大人なんだと最近知った。